立体交差する川 @新潟県立歴史博物館 その1

S_dsc01261 写真は、人力で水をかい出している様子を再現した圧巻の実物大ジオラマです。

増水時に多数の潟に水がたまって広域の水害を起きる、という基本的な地理条件から人がどのように土地を変えていったのか、という歴史の描写です。そのもの以外の意味では滅多につかうことのない「潟」という漢字がなぜ新S_image1_2潟県の名に入っているのか。小学生時代の社会の授業で、大規模な農地をつくるために秋田県の八郎潟の干拓が進んでいるという話がありましたが、その後、農業政策の見直しで事業も予定通りには進んでいないといったニュースを何回か見た覚えくらいはあります。あの「潟」です。昔、この地にはたくさんの潟があったのだそうです。

列島改造をうたった故田中角栄首相の思いの基盤にはこの新潟という土地の歴史があったのではないかと想像が膨らみます。古い地図を見ると、まさに無数の潟が平地を覆っているといった状況です。ひとつの漢字があてられるほど、あたりまえの地形だったわけです。この低湿地帯を人力で大改造して生まれたのが今の越後平野ということになります。

S_dsc01263 ジオラマを別の方向から見ると水をかい出してる先には、川と排水路を立体交差させるための底樋の工事現場があります。土地の高低の問題からなのでしょう。この工事現場の上を流れる川に排水するのではなく、その下に木製の管を通して海に向かって排水路(内野新川)を掘りぬいているのです。

翌日、新潟市立歴史博物館に展示されている立体模型でこの交差点をマクロに鳥瞰して、全体像も理解できました。2つの博物館で、複数の視点が提供されています。

木造の地下水路のジオラマは、木造の構造物としては巨大であっても、なぜ木造なのかを考えさせられるものでした。これが石造りであれば、現代にも残る遺跡として観光資源になっていたかもしれません。実際、何度も破壊事故が起こっては再建されたようです。水害に脅かされない農地を獲得するための執念でしょう。個人でできることではありません。共同体と行政が一体にならないとできない工事ですね。また、司馬遼太郎の「峠」で記された水浸しの中での戦争もこの地勢の表現なのだと納得しました。

現代のこの地は、水害・大雪・大地震と繰り返し起きる自然災害に耐えて、時間と労力をかけて改造を施した歴史の一局面なのだとしみじみ思わせてくれる博物館でした。

それだけ耐えるだけの価値のある土地なのだという郷土への誇りを感じさせる展示です。
「越後の人が忍耐強い」という話の根にふれているのだと思います。

  

博物館心 ミュージアム・マインド: 新潟県立歴史博物館