復興を担った家族の破片の再構成 嬬恋郷土資料館(群馬・嬬恋村)

Kanbara01 天明3年(1783年)8月5日の浅間山の火砕流は土砂・水をまきこんだ土砂雪崩となり、鎌原村を直撃。総人口570人の80%以上が死亡し、全戸が流失しました。たった200年前のことです。(鎌原村は、現在の嬬恋村鎌原地区)

 

土砂で堰き止められた吾妻川はすぐに決壊し、川沿いの村々を飲み込み、本流の利根川を通じて下流まで死体を押し流したそうです。

 

 堆積した土砂の分析結果を見ると、このときに噴出した溶岩の割合はたった5%。600年以上前の噴火時の溶岩が43%を占め、残りはそれ以前の数万年の堆積物です。エネルギーは地表にも蓄積されていたのです。

 

これは、ディスプレイの上だけに残った歴史上のリスクではありません。地震でも噴火でも土石流でも、エネルギーの蓄積は連続的でも、開放は突然集中します。蓄積は今も進行中ですが、開放されたときにしかその居場所がわかりません。原因と結果の関係は、単純な一本の矢印で示せるものではなく、時間も含む関数なのです。
 

 

 

Kanbara02 わずかに93人が高台の観音堂に続く50段の石段を駆け上ってかろうじて助かりました。この石段は15段だけ地表に残っています。6m以上の土砂が一気に村全体を押し流したことがわかっています。

 

家族の破片となってしまった夫・妻・子供は新たな家族の契りを結び、近隣の村と幕府の援助で復興を進めました。

自然の驚異は爆発的でも、対抗する人間の知恵も歴史を追って蓄積しより高次の解決策を生み出していくのです。

 

(2011/8/14 見学、2011/8/29 執筆)
 
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