いくつもの名前に表れ後輩を刺激した意欲と矜持  象山記念館(長野・松代町)


儒学から始めて学びの範囲を西洋砲術・オランダ語と拡げ、電気の知識を学んだあとには、電信の実験や電気治療器・地震予知器の製作までしています。新しい技術の可能性に気付いて何かしらとにかく始めたいという人だったのでしょう。

 その意欲が名前にも表れているようです。現代でも才能豊かと呼ばれる人の中には、本名以外に芸名・ペンネームといくつも名前を持つ人がいますが、それと同じなのかもしれません。

  • 名  啓之助、のち国忠・啓(ひらき)・大星。28歳の時に通称を、修理(しゅり)と改める。
  •  字(あざな、一般的に呼ばれる通称) 子迪(してき)、後に子明(しめい)
  •  諱(いみな、正式な名称) 国忠(くにただ)、のちに啓(ひらき)、
  • 雅号は多くあり、象山は、そのひとつ

なお、「象山」は、記念館名称ではZOZANであり、地元でもそれが通称のようですが、ご本人はSHOZANと残しているようです。そこにも自分こそがオリジナルであるという自負を感じてしまいました。

Zozanmemorial02 しかし、意外なことに、象山自身は、外国へ渡航したこともなければ、長崎にすら行っていません。教授を受け書籍からの独学で補い洋学を学んだのは江戸であり、吉田松陰の密航未遂事件後の10年近くの松代蟄居ののち、ようやく認められて京都に上るもすぐに尊皇攘夷派により54歳で暗殺されてしまいます。地理的な活動範囲は思いのほか限られていたわけです。蟄居でおしこめられた自負心と大望は、1人の人生の中で発散することはかないませんでした。

 

佐久間象山の年表

 

ただ、世代を超える決定的な影響力は持っていたのでしょう。吉田松陰、勝海舟、河井継之助、橋本左内、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎など交流のあった様々なキャラクターがその後の幕末から明治維新を歴史を動かす原動力になったわけですから。直接の関係はないのでしょうが、太平洋戦争末期の本土決戦に備えて作られた象山地下壕は、あるいて10分ほど。「海防八策」で海防の重要性について上申した意見書を出した象山の故郷にこういう施設が作られたのは偶然の一致なのでしょうか。

Zozanmemorial03 さて、日本で最初に電信の実験に成功したことにちなんで、NTTの初期の交換機や歴代の電話機の展示もされていますが、はたして電話と電信というのはどういう関係なのだろうかと関心がわきます。例えば交換網は同じだったのでしょうか。これは、通信の博物館で解明すべきテーマとして覚えておきます。

(2011/8/13 見学、2011/8/31 執筆)

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