近代百貨店の誕生と福澤諭吉 江戸東京博物館

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常設展示の一室で開催された企画展『近代百貨店の誕生 三越呉服店』を見学してきた。

(会期は2016年03月19日(土)〜05月15日(日))

 会場は明治維新後から明治末期までを4つの時代に分けて展示が構成されている。「第1章 追々繁盛の見込あるものを」は、維新後に政府主導で近代化促進のために計5回開催された内国勧業博覧会の紹介から始まる。

 日本最初の「博覧会」が湯島聖堂大成殿(現在の東京都文京区湯島)で開催されたのは1872年(明治5)のことである。文部省博物局による開催で、「文部省博物館」と呼ばれた。展示品は、翌年開催のウィーン万国博覧会への出品予定品が中心だった。基本的には、名宝や珍品を集めて観覧させることが目的の「見世物」だった。展覧会は人気を呼び、最終的な総入場者数は15万人と推定されている。長らく近世に生きてきた普通の人々にとっては見たことも聞いたこともない“コト”=「博覧会」が突如近代の社会の幕開けに出現したことになる。この仕組みは、その後管轄部署や名称の変遷を経て、今の東京国立博物館となる。

一方、内国勧業博覧会(内国博)は、「勧業」を冠していることからも明らかなように「富国強兵・殖産興業」の国策に沿って初代内務卿大久保利通の提案により内務省の主導で第1回が行われた。出品物の収集も各府県の出品取扱人による勧誘を行わざるを得なかった。実際の出品者は、国内物産の開発促進が目的といわれても何を出品すればいいのか見当もつかず、どんな効果が得られるのかも半信半疑だったろう。それぞれにリスクと機会を両天秤にかけたに違いない。第1回の入場者数は予想を下回り、財政的には不成功だったようだが、勧業政策の手段として博覧会の可能性への理解を広めることには成功した。

 “展示”に付随する“販売”の経験は、内国博終了後、一種のショッピングモールで陳列販売を行う勧工場(かんこうば)という業態へとつながる。銀座の博品館の前身である博品館勧工場は、1899年(明治32)に開業している。陳列された様々な種類の商品を正札を見て買うことのできる勧工場の販売方式は人気を得た。この小売業のイノベーションが次の近代百貨店へとつながる。

 「第2章 米国の流儀を採用しなくてはならぬ」に進むと、一枚の写真が自ずと目に飛び込んできた。福澤諭吉の洋装の写真である。
 1673年に伊勢商人・三井家の三井高利が江戸本町一丁目(現在の日本銀行近辺)に呉服店「越後屋」を開業した。現在では当たり前の正札販売は世界で初めて実現されたともいわれる。呉服購入のハードルを一般市民が手に届くように下げたことは社会的なイノベーションだったともいえる。ちなみに、現在では、その地の日本銀行の本店前の貨幣博物館では、日本のお金の歴史が展示されている。

 さてその後、幕末には物価が高騰して呉服などの贅沢品の買い控えがおき経営は悪化。改組されて三井呉服店となった後の1895年、経営の立て直しと近代化のために高橋義雄が三井銀行から三井呉服店の理事に就任し経営改革に着手する。高橋は水戸藩士の四男として生まれたが、明治維新による生活困窮で呉服店に丁稚奉公に出される。その後、苦学を重ねる中で、福澤諭吉の記者養成のもとめに応じて上京。1881年(明治14)に慶應義塾に入学し、時事新報へと進んで社を代表する社説記者となるが、商業への思いが高まり退社。1887(明治20)年、勉強のために渡米する。米国では、デパート経営に関心を持ち、帰国後は三井銀行に入社した。そして三井呉服店の経営に参画する。

 高橋は、新しい小売業の立上げを先導した。旧来の呉服店を近代的な小売業態へ革新するために、対面販売の座売りから陳列販売方式へと大幅な切り替えを行う。組織的には、慶應義塾出身者など学卒者を採用するなど新教育を受けた人材を採用。そして、アメリカの小売方法を参考に、非日常の祝祭空間を演出するため百貨店に博覧会や展覧会を導入する。百貨店の場のイノベーションを図ったのである。

 「第3章 営利だけで経営すべきでない」に進むと、副題には「~日比翁助の理念社会教育施設としての三越博覧会と展覧会の展開~」とある。

 日比翁助は、久留米藩士の次男。軍人になることを親族に反対された日比は九州久留米で福澤諭吉の声望に触れ、上京を決意。慶應義塾に学び、その後三井呉服店支配人に抜擢され、高橋義雄と共に改革に取り組むこ。1904年(明治37)、合名会社三井呉服店は株式会社三越呉服店に改組され、欧米流のデパートを目指す「デパートメントストア宣言」を発表。三越呉服店は日本初のデパートとして営業を開始。

 専務取締役に就任した日比は、「学俗協同」による文化・啓蒙機関としてのデパートを志向する(「俗」はビジネスの意味)。美術展/西洋音楽の演奏会/児童(こども)博覧会の開催や、洋風生活様式の紹介などによってビジネスの成果を社会にフィードバックした。 

 この時代、高橋義雄と日比翁助は、デパート経営を通じて一般国民の文化の近代化を目指した。続く「第4章 三越を訪わずして流行を語るなかれ」で描かれるように、明治末期から大正初期には三越が都市文化の主要な担い手として認知されることになる。“今日は帝劇、明日は三越”のキャッチ・コピーという宣伝文句は流行語になったのは1913年(大正2)。近代百貨店の歴史は、福澤諭吉の薫陶を受けた二人の慶應義塾出身者が先導したのである。

 さて、2015年。縁あって、私が個人の活動として参加している自分史の活用・普及の団体が日本橋三越本店で1週間普及イベントを開催することになった。準備から実施まで数か月の間、販売の現場の皆さんと交流する機会になった。普段は客としての視点しか持たなかった百貨店というビジネスを運営側から垣間見たのである。
http://www.jibun-shi-festival.net/2015nihombashi.html
 俄然、百貨店の、とりわけ三越百貨店の歴史に関心をもって江戸東京博物館に出かけたというわけである。しかも、この自分史イベントを2013年に初めて開催したときの会場がまさに江戸東京博物館だった。なにやら恐ろしいほどにあれこれつながっていたのである。

<<今回のミュージアムクロシング>>
江戸東京博物館、東京国立博物館、日本銀行金融研究所貨幣博物館


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近代百貨店の誕生と慶應義塾 -ミュージアムクロシング