「科学技術で社会に貢献する」コンセプトの長いつらなり 島津製作所 創業記念資料館

http://www.shimadzu.co.jp/visionary/memorial-hall/

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幕末、仏具職人の二男に生まれた初代島津源蔵は、

「科学技術で社会に貢献する」

という科学立国の理想に燃え、明治8年(1875)に京都・木屋町で理化学器械の製造を始めます。当然、仏具製作で培われた技術の基盤を受け継いでいます。

志を継いだ長男梅治郎は2代目島津源蔵を襲名し、1909年には国産初の医療用X線装置を開発します。

(左写真は、「レントゲンの島津」の名を確立したというダイアナ号)

ちなみに、2代目は電池の製造でも大きな功績がありました。最近ボーイング787のバッテリー発火事故で名前が挙がったGSユアサ社のGSは源蔵の頭文字をとったもの。世界的な蓄電池ブランドに成長しています。

 

130203_dsc00542創業記念資料館を見学すると、島津製作所という企業のよって立つところが何なのかが、工夫を重ねてこしらえられた理化器械の数々から匂ってくるようです。特に、教育用の器材は、機能的でいて、しかし美術品のように拵えられています

 

田中耕一さんが、民間企業のノーベル賞受賞で話題になったのは2002年。「科学技術で社会に貢献する」というコンセプトは連綿と受け継がれてきたのでしょう。

 

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(左端が森鴎外の名作『高瀬舟』の高瀬川。右端が、島津製作所 創業記念資料館。)

 

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島津製作所の“丸に十の字”の社章は、薩摩の殿様・島津家のものと同じです。創業者の祖先が300年前に島津家と縁があって贈られた家紋だといことです。

 

創業の地に立つ資料館と目と鼻の先、幕末の理科系、佐久間象山と大村益次郎がテロに倒れた高瀬川沿いに記念碑が立てられていました。

 

幕末・維新の科学の歴史の糸が何本かこの地で交錯したのです。