開港で突然歴史の表舞台に出た町:横浜 「神奈川県立歴史博物館」

Dsc06653_edited1  「横浜はいつから横浜だったか」を考えながら常設展を見てきました。

順路としてはまずエスカレーターで3階にあがり古代と中世を、2階に下りて近代、現代と見ていきます。

まずは、古代。遺跡の分布図を眺めると、当時栄えていたのは相模川の流域で、横浜近辺は空白地帯です。海沿いも目立った分布がありません。狩猟、漁撈、農耕の時代には、大きな川の流域が住みやすかったのでしょう。

中世は、神奈川県ですから鎌倉が中心の展示になります。ここでも横浜近辺の話題はあまり見当たりません。

近世には、相模国(神奈川県中西部)と武蔵国(東部)に分けて説明がされますが、まず驚いたのは横浜の東側が武蔵野国だったということ。武蔵国と聞くと埼玉県あたりを思い起こしましたが、埼玉、東京、神奈川東部を含む広い地域が武蔵国だったそうです。時代によって、時代の要件に合わせて地域の境界と重心はかわるのです。

Dsc06652_edited1  地図モノばかりに興味を示している私に説明役のボランティアの方が気づいて、1階で開催中の日本の地図の歴史の展示のことを教えてくださいました。話のきっかけができるといろいろと質問がしたくなり、地域の境界や主な交通路など教えていただきましたが、やはり今の感覚で考えるのとはかなり違った構成だったようです。公式交通路は東海道だったわけですが、一般の人はそこを避けて内陸側の道を行き来したとのこと。このあたりは、展示品と解説を見ているだけでは気づきません。わかっている方に聞けるというのは価値があります。

そして近代。突如として展示は横浜一色となります。

日米修好通商条約により神奈川の開港が定められたあと、実際には神奈川湊の対岸の横浜村に港湾施設が建設され1859年7月1日(安政6年6月2日)に開港されました。
われわれがイメージする「ミナトヨコハマ」は、ここから始まったわけで、古代からの千年単位の歴史から考えると突然の事件です。
同時に、近世までの土と木と紙の柔らかな展示が鉄と煉瓦の硬い展示に不連続に切り替わります。2つの時代をまたがる錦絵も、表現方法は同じでも題材が総入れ替えになって、少なくとも私にとっての感じも美術品から記録媒体に変わります。

それから150年。今の横浜との連続性は維持されているようです。