成功の自己否定と共感の世代断続 食とくらしの小さな博物館・港区高輪

イノベーションの起点、東大の池田菊苗博士の手作り「具留多味酸(グルタミン酸)」。

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明治41年(1908)、博士はグルタミン酸ナトリウムの製造法特許を取得。第5の味「うまみ」を産業化したのが、今の味の素社です。

生活の洋風化、競合企業の登場に応じて、その後さまざまな製品へと発展していきますが、「だしのうまみ」の中核には60年近く、同社の強みである化学合成というイノベーションが常識としてあったのでしょう。

創業後の製品開発の歴史陳列をしっかりと順番に見ていくと、昭和45年(1975)の「ほんだし」の不連続に気づきました。鰹節の香りの鍵となる成分特定・合成という「常識」を否定して、鰹節自体を使用するという方針への切り替えです。実物の化学的コピーから始まった成功の歴史を否定し、実物に回帰するという判断には、じっと様々な葛藤のドラマがあったのではないかと空想が拡がりました。

私が自分で食事を作るようになったころの1980年代のテレビCMは、和服の池内淳子が登場して「カツオふうみのほんだし~」のサウンドロゴで締まるパターン。ほんだしといえば「鰹風味」と潜在意識に埋め込まれていましたが、なんと「とり風味」をはじめさまざまな風味の試行錯誤が続いてきていることもわかりました。

不連続の大きな変化に加えて、試行錯誤の小さな変化も奨励される社風のようなものがあるのでしょうか。


 普段なら通りすぎてしまいそうな25年おきの「くらしと食卓」の展示。

食卓展示と解説にあった「家族と食卓」「食事作法」を見比べながら、昭和の訳60年間の生活の大変化を反芻します。どの時代を常識と受け止めるか、世代によって大きな違いがあることを理解します。

正座が基本のちゃぶ台時代とその後、食事を一緒に食べるのか否か、おしゃべりしていいのかどうか、・・・・基本的な文化レベルで全く違う状況の変化があったわけです。

他の博物館と同様そこには「モノ」の展示しかありませんが、この解説文が「ヒト」の絡みを想像させてくれました。

昭和10年(1935)

一人ずつの銘々膳が常識だった明治時代。30年代後半(1900年頃)からちゃぶ台の普及が始まり、昭和初期には食卓は”囲む”のが一般的になります。正座が原則で、はしの持ち方・使い方も厳しく指導されます。食べ残しは厳禁という時代でもあります。

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昭和35年(1960)

団地が登場する時代です。核家族がダイニングキッチンでテーブルでの食事。テレビを見ながら、という「ながら食事」も徐々に許容され始めます。

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昭和60年(1985)

単身や二人の世帯が増加。同居家族でも別々に食事をすることが増えます。食事中の会話は当たり前の時代です。

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展示の続きには、30年間の「平成の食卓」がありません。もはや”標準的・一般的”な食卓というものがない時代になっているのでしょう。


食とくらしの小さな博物館

東京都港区高輪3丁目13番地65号 味の素グループ高輪研修センター内2階

都営浅草線高輪台駅より徒歩3分、JR品川駅より徒歩11分

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イノベーションの継続 食卓の大革新(明治から昭和初期まで)

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